点灯と明滅

交歓日記|Twitter @taka_1_4

解いては結ぶ靴紐(てる)

 小学生のときは毎年の楽しみだった祐天寺の夏祭り。日没後の涼しくなった頃、遊んでくるからと、帰宅したばかりの母親に五百円玉を貰って家を飛び出した。道の途中にある叔母の家に寄って年下の従弟たちにも声を掛ける。叔母のところは羽振りがいいから、この子たちを頼むね、と三千円くらい渡してくれる。そこに同居している祖母の部屋にも寄り、再びイノセントな顔をして千円札を受け取る。こうした手口で複数の大人から多額の現金をせしめた小学生男子が、あどけない子分たちを引き連れて夕闇の境内を闊歩していたのだ。

 闊歩といったって、ごった返しているから常に大人の背中に囲まれていて、視界には足元の石畳しか見えないような状況だった。二人の従弟が迷子にならないように渋々ながら手を繋いだ気がする。渋々というのは、同級生にばったり会ってその光景を見られたくなかったから。皆は友達同士で遊びに来ているらしいのに自分は呼ばれない、ということは理解していた。だからこそ、彼らに遭遇した時に年下の男の子と一緒にいるような状況が生まれるのは、当時の自分のプライドが許すことではなかった。一方で、次男である僕が誰かを監護する側に回るのはおそらく初めてのことでもあって、従順にも手を繋がれている幼い従弟たちに対してなんだか得意になって兄貴風を吹かせる痛々しさもあった。

 生き物には手を出さないという敬虔な誓いを守って適切にお金を使い、各自カラフルなバネとか水ヨーヨーみたいな絶妙な景品を獲得する。お腹が空いたら焼きそばを買って、藤棚の下のベンチで食べる。盆踊りが始まる時間になると、もう出店は仕舞いで子供たちはつまらないので、そろそろ叔母の家に戻る。そこは人の家でも躊躇なく「ただいま」と言える場所だった。中目黒の一等地、旗竿状の長いアプローチを上った先の玄関で、一心不乱に駆け寄ってきた不細工な犬がひっくり返って尻尾を振る。クーラーが強く効いた広いリビングの、飾り棚には家族写真がずらりと並び、隅には驚異的なサイズのオーガスタが飾ってあった。叔母にまだお腹は空いているかと聞かれて、皆で曖昧な返事をすると、牛肉を炒めたプレートを出してくれた。食後には革張りのソファに並んで掛けてアイスクリームを食べながら、テレビでカートゥーン・ネットワークのアニメを観た。ダイニングにいる叔母が電話で誰かと話し込んでいる様子を伺っていたら、祖母が自室からのそのそとやってきて、桃でも剥くかと聞いてきた。「いらない」と答えても「いいから食べなさい」が出るのを知っていた。そのうち遊び疲れた従弟たちが眠そうにし始める。名残惜しいことに、夜が更けたら帰らなくてはならないそうで、自宅まで車に乗せてもらえた。歩いたってすぐなのに、叔母は「今日はお米を持っていくつもりだからさ」と。

 こうして、大人たちの保護の下に、遊ぶにも食べるにも困らず、幼い従弟たちと不細工な犬にも懐いてもらえて、送迎までついてしまったことになる。小学生の認識した世界における、ささやかな全能感。もちろん今でもそれ自体が幸せな記憶であることに疑いはないけれど、その全能感の拠り所がすべて「よその家」であったことの生臭さに気づくことができるようになるのは、もう少し成長してからだった。

 

 この病気が流行る少し前に、ほんのわずかだけど、その従弟たちと初めて親抜きでお酒を飲む機会があった。小さな頃は一緒によく遊んだのに、より少し高度なコミュニケーションがとれるほど成長する頃には、あの家を手離して外国に行ってしまっていた。だから親たちを介さない形で時間を共有したのは、それこそ小学生の時以来かもしれない。彼らが大学生になったいま改めて喋ってみると、今になって新しい友達ができたような不思議な感覚があった。探り合うような適度な距離感は、まさに親しくなりつつある段階の友達同士だ。しかし、新しい友達のようでありながら、その話題は間違いなく過去の文脈上にある。たとえば、今年は中止されてしまった、祐天寺の夏祭りのように。

 

 二人がそれを覚えていたことに動揺するとともに、自分の心で何かが融解した気もする。たしかに、偏屈で賢づいた自分は、いつしか彼らとの間に隔たりを感じていた。同じ町に暮らし、あれだけ近くて親しいのに、多くの違いがあることを知っていた。しかしその隔たりは、それぞれが大人になるにつれ、満ち足りた記憶とともに徐々に埋め戻されてゆき、幼い頃を知った希少な友人関係が、いつか強固な地盤になるはずだと、今は何となく信じている。幸せな子供たちをよそに、あらゆる困難を引き受けていたかつての保護者たちが望んでいたのは、こういうことじゃないのか。