点灯と明滅

交歓日記|Twitter @taka_1_4

ペンギン大集合(どら)

こういう、日記を書くみたいなのって実はすごくひさしぶりで、書き方忘れちゃったな。

ただそのとき考えていることを、正しさとか論理性とか評価とかそういう一切合切を全く気にせずに、ただ文章にするという作業を、ひさしぶりにやってみたくなった。けど、しばらくやってないと案外できなくなるんだなあと思いながら。


最近、夜寝る前は録画保存してあるペンギンのドキュメンタリー番組を見る。飽きもせず、毎日見る。今も見てる。あ、ジェンツーペンギンがオタリアに食べられ……よかった、逃げ切ったみたい。そんな感じで、生きるか死ぬかみたいな厳しい動物の世界の様子を横目で見ながら、眠りに落ちる。大変そうだなあ、それと比べたら私とか全然大変じゃないなあ、そうだよねー、おやすみー、みたいな、そんな感じ。

くぅーコウテイペンギンのヒナかわいすぎるなーありえんくらいかわいいなーー。


以上、最近動物になりたいって言いがちだけど実際になる勇気はないしそもそも人間も動物じゃんと思ってるどらでした。おやすみなさい。



消灯(誠)

とある現代美術展に行った。

今も開催されてるものなのであーんまり詳しくは書けないんだけれど、

暗ぁいということだけ伝えておこう。足元気を付けてね。

 

暗いところで色んな人がうごめいている、というと演劇を思い出す。映画館も。

知らない人ばっかりの場所で電気を消されて、じっと静かにしてる。

向こうの世界に干渉しないように息をひそめてる。

その緊張感というか責任感?からなのか、やっぱりblue-rayとかで見るよりも、劇場や映画館で見たほうが集中できる気がする。

うーん、やっぱり、何だかあれは周りに気を散らすものがないだけじゃなくて、知らない人と一緒に、知らないうちに協力しあっている連帯感から来ているものかもしれないね。

 

今の私たちは、そういう無言の連帯感を持てる場所に行きづらくなって、

明るい場所で、モニターの向こうで、言葉でもって連帯感を出そうとしているけれど、

どうだろうね、いつまで電気はついているんだろうね。

ソムニウム(もっちー)

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毎日通る橋の上から遊園地の乗り物が見える。とても大きくて振子状に揺れる海賊船の遊具。今年の夏に廃園になったその遊園地の一部を毎日見て、まだある、まだあるなと確認していた。一昨日、海賊船の隣に馬鹿でかいクレーンが見えていた。とうとうという気持ちで明日の朝は写真に撮っておこう、と考える。帰り道にはもう跡形も無くなっていた海賊船。クレーンだけ残ってる。

歩道に立っている電信柱と建物の壁の間を夕方以降に通り抜けることは、絶妙にひとつずれた世界へ入ることになっているらしい。次にまた通り抜ければ戻ってこれるけど、時間が経ってしまうと帰れない。無意識に通り抜けて、ついついそのことを忘れてしまうと、気がついた時には手遅れでどこにも帰れなくなるかもしれない。そもそも自分がいる場所は本当に正しくて、日常で、正解なのか?何を基準に正しい毎日か?

物心ついた時からその人たちはいた。彼らはいつも自分にとって「いいこと」を教えてくれる。JRは人身事故で動いていないから早めに出たほうがいいよ。あの人は今機嫌が悪いから何も聞かない方がいいよ。この症状で受診するなら3丁目の内科がいいよ。いつか彼らが見えなくなることがとてもとても怖い。自分は一人で生きていかなきゃいけないということだから。

指輪を買ったらはめたその日のうちに抜けなくなった。少々のゆとりはあるのに、どうやっても抜けない。抜こうとすると突然ぴったりとし、皮膚にまとわるようにくっつく。気持ちが悪い。

ものすごく気になる人ができた。どうしても自分のものにしたい。どうしても。自分のものを身につけて欲しい。絶対に離れないような、そんな都合のいいもの。あるかな。色んなまじないを込めて、絶対に寄り添うものを。

「職場?公園。」隣の人はそう答えた。公園かあ。まあそんなこともあるんだろうな、と僕は特段気に留めなかった。「公園、いいですね。」「別にどうってこと無いよ。」瓶ビールを飲み干しながら隣の人は言う。午前3時28分。始発まで飲めないよなんて言葉がこの街で一番聞こえてきそうな時間帯だ。酒を提供するこの店の一番奥では、出会ったばかり同士の二人が酔い潰れて一緒くたに眠っている。みんな質のいいアルコールで意識を朦朧とさせて、文字通りの陶酔した空間だ。そんな場所の空気を吸いながら、酒を飲み干し、知らない人の知らない話を砕けた友人同士のように聞き入る。この時間、この場所で行われているのはそういったもので、僕はそれを何よりも愛していた。

眠るといつも安否確認をされるほど、寝息がとても小さいらしい。その日に出会った女性たちはいつも焦ったような、不安そうな目で僕の心音と呼吸音を確かめていたとのこと。そりゃあ行きずりの男と一晩過ごしたら相手は心肺停止してました、だなんて嫌だろうな。僕も腹上死したとは思われたくない。ある日、一人で眠ると自然と呼吸が極浅くなっていたことに気づいた。息ができないと言うより、自分の意思で吸っている酸素量を減らしている。身体の上を温かいものが滑ったような気がした。揺れているような感覚がとても心地よい。ザザザザという音が遠くで鳴った。揺れている?違う、流されていた。気がつくと南の島のような気候の中で、僕の身体の上を波が行ったり来たりしていた。水面に浮遊している顔の上を、温かくて柔らかい水が何度も滑るので、息ができなかったのかもしれない。見えている夜空は自分の知っているものより少しだけ明度が高く、星は少ししか見えなかった。

 

ランダム(誠)

一時期、息をするのが耐え難かった
そんなことを思いだした

息をしていたくないというのがどういう状態かというと、死にたいだとかそういう高度な意味ではない。
静かに、本当に静かにしていたい、という思いが強かった。
こんな時他の人はどうするんだろう?と思ってググってみたけど、答え出てこなかった。
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人の意識は必ずしもつじつまが合ったものではないでしょう。
まぁこんなに、まともなふり出来るようになっちゃって。

ささくれ(こうせき)

今でもなぜか覚えているのだけれど、小学生の頃、友達が住むマンションの敷地内にある公園に一人きりで寝そべっていたことがあって、(どうして一人だったんだろう)そのときわたしは死ぬというのはきっと夢のない眠りのようなものなのだろうなと考えていた。前世とか来世とか天国とか地獄とかは、そういうものがあったほうが報われる感じがするからあるということにしておこうというまやかしというかごまかしというか、下品な期待だと思った。死ぬというのは、テレビがぷつんと切れて真っ暗になってそのままずっとそうで過去も未来もなく永遠に無になるということなのだと思った。そう思うのは辛いことで、死後の世界を諦めることで自分が今後、ありとあらゆる気力を失ってしまいそうな気もしたけれど、それが本当のことだからそう思わなければならないのだと思った。子どもはみんな、暇になると、死んだらどうなるんだろうなんてことを無邪気に考え続けてしまう。ささくれと同じで、気にしない方がいいものなのに。そんなことばかり。

深夜行(もっちー)

夜に拓かれた場所が欲しい。本屋、喫茶店、チェーンのファミレス、花屋。どれも住宅街の最寄駅でやるには採算が取れない。それでも、歓楽街の喧騒の中の夜と、生活の夜では全く意味合いが異なる。

去年の冬、私はどこにも行けなくなった。そんな事を考えながら、次の日の仕事を無視して地元の22時閉店のカフェに座っている。22時が過ぎれば、ここにはいられない。そうなると次は向かいのファミレスへ向かう。ここなら深夜2時までいることができる。

どこにも行けなくなる人間の夜は、2時で終わるはずがないのだ。次の寄る方は川沿いのベンチで、ここで持ち歩いていた分厚い本を取り出して気の済むまで過ごす。確かこの冬は例年より暖かかったのだが、真夜中というのは流石に寒く、皮膚が赤くひりつき、薄皮が剥け始め、少しでも動くと骨がみしみしと鳴る。

 

この頃、京都を題材にした作品ばかり読んでいたのは単純に京都に行きたかったから。前にもどこかで話したが、本当は京都じゃなくてもよくて、自分が一人で新宿を歩くのと同じように歩けて、普段とかけ離れた街ならどこでもいい。京都に行きたいのではなく、今すぐここから離れたかった。東京以外の都市で歩けるところは、京都市だけだった。

ある日の20時。その日は雨が降っていて、とにかくどうしようもなかった。丁度京都に行く本も読み終えてしまい、またその作品が途轍もなく面白かったのだ。どこにも行けないどころか、自分の場所に帰ってきてしまった。なんかもうひたすら何もかもが嫌だから雨が降っているのを良いことに、傘の中の私は自室にいる時と同じように自由だった。21時31分品川発京都行き最終。これに乗ったら、何もかも捨てていいよ、そんな気がした。

結局、なけなしの理性で手持ちが心許ない事を思い出した。あの日京都に行っていたら、たぶん、全部が終わっていたような気がする。今となってはコロナで行けなくなってしまう最後のチャンスだったかなとも、少し惜しい気持ちにもなるが。

11月に生まれたばかりの子を見て、そんな事を思い出していた。

 

一夜一夜に人見頃(どら)

今夜は、ネオワイズ彗星というものを観測する絶好のチャンスらしかった。

20時前から21時頃までに北西の空に見えるとどこかのニュースで見たから、家の屋上に登って探してみた。この季節は蚊がたくさんいるから、部屋着のワンピースにニーハイを履いて、さらに長ズボンを履いて、さらに長袖の上着をしっかり着て、万全の対策をとって臨んだ。それだけ気合を入れたのだから、見えてほしかった。空は微妙に曇っていて、かつ街の明かりが多いからか微妙に明るくて、金星しか見えなかった。

諦めきれなくて、21時からのドラマが始まるギリギリまで、空を眺めながらぼんやりと待っていた。もちろん、待っても彗星はやって来なかったけど。

最近は雨ばかりだし、日が落ちてから家を出ることがほとんどなかったから、一応星の見える空を見たのはひさしぶりで、少し感傷に浸ってしまった。

次にネオワイズ彗星が近づくのは、5000年以上先だと、どこかのニュースで見た。5000年っていうのが、私にとってはあまりに途方もなさすぎた一方で、宇宙にとっては全然たいしたことのない取るに足らない時間で、その差を自覚すると少しおもしろいような、でもつらいような気持ちにもなった。

5000年先、私は必ず、生きていない。5000年先の5000年前である今を生きている私の痕跡も、5000年先には跡形もなくなっている。5000年先も地球が存在していて、人類もまた存在し続けているという前提のもとで、生物学的に考えれば、もし私が子どもを産みその子どももまた子どもを産み、それが5000年先まで奇跡的に続けられたなら、私のDNAは遺り、つまり私の痕跡が残ることになる。それでもやっぱり、私が望む形の「跡形」は残っていない。残ることはない。それが少しさみしい気がする。

以前のどうぶつの森では、自分で星をつなげて星座を作って、名前をつけることができた。今思えばあれは、すごくロマンチックな営みだったし、私が今一番やりたいことなのかもしれない。