対になる電飾(もっちー)
道ができる。歩道ができる。道路ができる。
去年の夏頃、長年空き地だった実家の隣に道路建設工事が始まった。
緑色のフェンスで覆われた100mだか200mくらい伸びた空き地には、子どもの頃にフェンスをよじ登って野球やサッカー、鬼ごっこをしたり、廃材とスケボーを組み合わせて作ったジェットコースターに乗って背中に大きな擦り傷を作った思い出がある。
小学校四年生くらいの時、親から「ここは東京都の土地になったから、もう入っちゃダメだからね。」と言われ、立ち入り禁止の札が立てられるようになった。
それでも雪が降った日なんかには、廊下の窓から誰かが付けた新雪の足跡が見える。
16年経った頃、ようやく道路工事が始まった。
母の実家の目の前にある道路は、40年経ってからやっと道路が建設され始めたのだから、ようやくと言うより、結構早い方なのかもしれない。
家の隣にブルドーザーが置いてあったり、夜になるとピカピカ点滅する工事用ランプがイルミネーションみたいで、去年のクリスマスには「電飾いらないね。」なんて話していたくらいだ。そんなことが面白くて、人がいない時を見計らってはちまちま写真を撮ったりしている。
作られていく道路から文章を作ろう、と思ったはいいけど、何にも浮かばなかった。
事実を並べていったら思いの外長くなったけど。
何らかの物事を繊細に、綿密に捉えて形にしようとしても、それが全くできないのは大抵体を動かしている時や、生活に余白がない時だ。余白が無い、と言うのは何も悪い意味ではなく、今あるものやことで、充分に息ができているような。言ってしまえば頭を使っていないだけなんだけど、保育園で仕事をする日常はやっぱり楽しくて、子どもと接していない時であっても、縫い物したり、絵具を使ってはらぺこあおむしに着色しているので楽しい。
それでも、離れた階上で朝から黙々と調理している先生を見ては、そのひたすらに料理する姿が楽しそうで、人生の中で調理師免許を取る選択があってもいいかもしれない、なんて考えていた。
私の生活。