点灯と明滅

交歓日記|Twitter @taka_1_4

女の子は本当にピンクが好きなのか(こうせき)

堀越英美さんの「女の子は本当にピンクが好きなのか」を読みました。わたしは子供の頃、ピンクを好きだったことがなくて、中学三年生のときに私物を嫌いなピンクで埋め尽くす(シャーペンもペンケースも定期入れも、電子辞書までピンク)ことで無理やりピンクへの抵抗感、もやもやした嫌悪感を押しつぶした経験があるので、タイトルだけでぐっときてしまって、数ページ立ち読みしてすぐにレジに行きました。以下に、印象に残った文章を書き出してみます。

 

 

国を超えてこれほど多くの女児がピンクを好むのは、いったいどういうわけなのか。社会の影響? それとも女の子は生まれつきピンクが好きになるように脳が配線されている? 仮に生まれつきの性質なのだとしても、もやもやせずにはいられない。

そもそも、なぜ自分はピンクにこんなにもやもやしてしまうのだろう。私は、ピンクから何を読み取っているのだろう。

 

——ピンク。あんなに自己愛の強そうな色はないでしょう? あんなに媚びて発情している色もない。あんなに「可愛さ」が画一的に記号化された色もない。ピンク好きを公言したり、ピンクの小物を持ったりするのは、可愛がられたい気持ちを前面に押し出しているのと同義! そんなのズルいし、そもそも恥ずかしい。愛玩対象として世間様に自分を提示するなんて、私のプライドが許さない! 「女と言えば、ピンク色」なんて思われてるけど、私は女である前に人間です! まぁそんな感じで、随分長いこと私はピンクを毛嫌いしておりました。

 

のちに彼女は、組み立て玩具で遊んで育った子供のほうが、空間把握能力テストで良い成績を取ることを知る。「なんて残念なんだろうと思いました。……(中略)……100年以上もの間、そうしたおもちゃは男の子向けに売られてきました。そして男の子たちが数学や科学に興味を持つのです。一方で、女の子は人形やお化粧セットを買い与えられます。これは不公平です」

 

「女の子はみんなピンクのおもちゃ、男の子はピンク以外のおもちゃを買わなきゃいけないのはなんで?」

 

「今日お店に行ったら、レゴ売り場はピンクの女の子コーナーとブルーの男の子コーナーにわかれていました。女の子のレゴがすることといえば、おうちで座っていたり、ビーチに行ったり、お買い物したりするだけ。女の子には仕事がありません。男の子のレゴは冒険に出たり、働いたり、人を救ったり、サメと泳いだりしてるのに」

 

もちろん、これはレゴだけが抱える問題ではないのだった。玩具業界全体に向けて、「玩具をピンク(女児)とブルー(男児)で分けることをやめるべきである」と訴える保護者団体も出てきた。……(中略)……保護者たちはまず、男児玩具が色・内容ともにバラエティに富んでいるのに対し、ピンク色の女児玩具が「お世話」と「かわいさ」という領域に限定されているという懸念を表明した。

 

女性が一般に赤やピンクを好むのは、そうした好みを持つ女性のほうが、乳児(=赤みを帯びたピンクの顔色)の生存率をあげることができたからなのではないかという仮説……(中略)……が正しいとしても、アンチ・ピンク派の主張が揺らぐことはないだろう。彼女たちが懸念しているのは、ピンクそのものより、ピンク色の玩具に込められた意味にあるのだから。もっとも多い批判は、お世話、家事、美容といった従来の性別役割分担を踏襲するピンク色の玩具で遊ぶことで、低賃金労働、無償労働に追いやられてしまうのではないかといったものである。……(中略)……女児がピンク色ではない科学系や組み立て系の玩具を男児向けだと思い込み、さまざまな能力を育む機会から疎外されてしまうなら、ゆゆしき事態ではないだろうか。

 

ピンクに好き嫌いはあるとしても、これまで日本女性は概ねピンクに従順だった。ピンクを好まない人でさえ、自分が女性性を受け入れていないから悪いのだと自分を責め、ピンクの押し付けに対して団結して声を荒げることはなかった。……(中略)……母性、エロ、幼さ、そして献身……。日本におけるピンクは意味が何重にも重なっている。一言でまとめると「客体であれ」という期待だ。

 

同僚たちが用意したプレゼントは、目の覚めるような青みピンクのタンクトップ。……(中略)……レストランのトイレで着替えてお披露目したところ、成人の儀式でバンジージャンプを飛んだかのような祝福を受けた。まるでピンクとは幼稚さの証でなく、女性性を受け入れた勲章であるかのように。……(中略)……客体であれという男性からの期待と、自我を捨てて客体を装って成熟せよという女性からの同調圧力の中では、ピンクに抗うことは難しい。

 

「無垢な美少女」「尽くす母親」といった自我や欲望を持たぬ女性を理想像として刷り込まれて育った日本の女性は、自分の欲望を見つめることに慣れていない……(中略)……自分の能力への自信、キャリア願望、承認欲求を恥じる人は、「自分は客観的に見て何に向いていて、本当は何をしたいのか。そのために何をするべきなのか」を突き詰めて考えないまま大人になる。そして、周囲の期待する女性像にわが身を添わせてしまうのだ。

 

息子たちは、父親不在のピンク色の「母と子の世界」で母からの献身を享受した後、母のいない「男社会」に放り出されることになる……(中略)……彼らは男社会の競争の中で表向き男らしさを装いながら、母性の喪失を抱えて生きなければならない。こうした社会で女性に求められるのは、男性と同等の稼得能力でも確立した自我でもなく、母のようにすべてを肯定し受容する、ピンク色の母性である。

余談だが、ときおり外国人から「ベイビートーク」などと揶揄されるように、他国の女性に比べて日本人女性の声は甲高い。……(中略)……声優やアイドルのような「幻想の女性」を演じる仕事になると、その高さはマックスとなる。……(中略)……これも、日本女性は母性と少女性を要求されているからだと考えると納得できる。どの国のお母さんも、赤ちゃんをあやすときは高い声になるからだ。

 

男の子がおバカで自由でカワイイ存在として愛でられ、誰はばかることなくカワイイものを満喫できるのは、「母と子の世界」の住人でいられたごく短い時期だけなのだ。

 

萌えとは、「かわいい幼児期の自分と、自分を全肯定しかわいがる母」で構成されていたピンク色の世界への憧憬なのではないだろうか。

 

幼い男児の多くはピンクをもっとも嫌いな色に挙げる。性別アイデンティティを確立している最中の幼児は、グレーゾーンを許さない。ピンクが女の色なら、男の自分はそれを避けねばならないと考えるのだ。……(中略)……ピンク色のかわいい世界との関わりを強制的に断ち切ってしまった彼らは、「カワイイ」感受性を同性間で競い合い続ける女子とは対照的に、「カワイイ」観を幼児のまま保持することになる。

 

子どもを産んだ女性が「母と子の世界」へと囲い込まれる日本社会は、必然的に中高年男性が支配する男性社会となる。女性性が排除されている分、その過酷さは他国以上だ。この社会で大人の男になるということは、競って、勝って、他人を従え、お金を稼ぎ、見目麗しい「女の子」を獲得して勝ち組となるレースに参加することを意味する。……(中略)……美少女文化への燗熱は、社会の息苦しさの裏返しだ。……(中略)……「カワイイ」をいかに磨こうが社会から疎外される女性、「カワイイ」から疎外されて美少女以外に心躍らせることができなくなった男性。どちらにも息苦しさがあるのではないだろうか。

 

こんなCMがある。数名の男女に「女の子らしく走ってください」「女の子らしくボールを投げるふりをしてください」と指示をだすと、彼らは内股になったり、「髪がぁ……」と頭を抱えたり、脇を閉めて手をふりふりしたりと、弱々しくこっけいなしぐさを見せる。しかし同じ指示を実際の少女たちに出すと、彼女たちは力強く走り、大きなモーションで投げる真似をする。最後に「女の子らしく走るってどういうことだと思った?」と問いかけられた幼い少女は、こう答える。「できるだけ早く走るってこと」。……(中略)……客体としての〈女性〉イメージをそのまま飲み込んで幼いころに育んだ自尊心を打ち砕かないために、少女たちはさまざまな試行錯誤をする。……

 

「客体であれ」「自分を持つな」という圧力をこれ以上女性たちにかけることは、男性にとってもいいことはないはずだ。女も闘争心や承認欲求を有する人間である以上、無理に「女」の型にはめてしまえばその欲望はゆがんだ形で噴出する。

 

 

子どもの頃、好きだった色は赤と黒でした。だから、女の子のランドセルの色が赤であることに不満はなかったし、小学校に着ていく服は、黒のタートルネックに赤のチェック柄のプリーツスカートを合わせるのが一番いかすと思っていた。母が買ってきてくれたピンクの長ズボンに「ピンクはいやだ! 絶対着ない!」と反抗して、人が一生懸命選んできた物にとる態度ではないと泣くまで叱られたこともあったな。ピンクも水色も好きな色じゃなかったから、女児向け商品のカラー展開がたいていその二色で、赤も黒も用意されていないことが不満だった。でも、好きなポケモンはミュウとシャワーズでした。